INTERVIEW
2024/06/27

古民家との出会いから「農」×「宿泊」のマルチワークを生業に。無理なくつづくローカル起業論

PROFILE

中島綾平 一棟貸しの宿「燕と土と」オーナー

長野県飯田市

conomichiと長野県飯田市のコラボレーション企画「里山LIFEアカデミー」。7月6日に開催予定の現地プログラムのガイドを務める中島綾平さんは、「農」×「宿泊」を切り口に地域資源を活かした生業を起こし、ローカルでのキャリアを重ねています。

養蚕業が盛んだった農村地、長野県飯田市龍江で、一棟貸しの宿「燕と土と」を2022年5月に開業した中島綾平さん。2023年4月には、「龍ノ穂ーリュウノスイー」の屋号で妻の真理さんが主体となり農業事業もスタート。宿のオプションプランとしての農業体験や宿泊客に野菜を提供するなど、「農」×「宿泊」を掛け合わせたマルチワークを夫妻で行っています。
 

「里山LIFEアカデミーvol.3」のオンライントークセッションでは、古民家の具体的なDIYや農業生産での苦労話、さらにはローカルならではの宿泊事業やキャリアの作り方の視点を語っていただきました。今回のインタビューでは、中島夫妻が「農」×「宿泊」のマルチワークにどのように辿り着かれたのか、そして今後、何を見据えているのか詳しく伺いました。


中島綾平さん:高校卒業後名古屋に暮らし、その後関東へ。飲食業のほか、5年間にわたるホテルマネジメントの経験を重ね、2021年に飯田市へUターン。「龍ノ穂ーリュウノスイー」の屋号で農業を営むほか、2022年一棟貸しの古民家宿「燕と土と」をオープン。

飲食、接客、宿泊、そして農業…。自分たちに合った生業を探して

ー現在は宿業と農業を営まれているとのことですが、元々はどのようなキャリアを歩まれてきたのでしょう?

中島:最初の夢は、飲食業で自分のお店を持つことでした。日曜の昼に母親が作ってくれるスープパスタが好きで、飲食業に興味を持ち、高校を卒業して名古屋の調理師専門学校に進みました。在学時から飲食店でアルバイトをしていて、イタリアンや居酒屋などを経験しました。

ただ、飲食業の現状をみると、当時は、朝の7時から夜の12時まで16時間以上働いているところもざらで。お金を貯めるのも難しく、技術は身に付くけれど独立にはほど遠い状況でした。そこで調理を諦めてホールのサービスを始めたのですが、お客様が目の前で笑顔になってくれるのが嬉しくて、サービス業の方にのめりこんでいったんです。


6年が経ち24歳になった時、飲食店のマネージャーとして独立する話をもらいました。これはチャンスだと思って引き受けたのですが、ある日突然先方の都合でなくなり、連絡もつかなくなって、職も家もなくしました。それで、一度地元の飯田市に戻ることにしたんです。


ーそれは大変でしたね…。地元に戻ってからどうされたのですか?
中島:
人間不信に陥って、2ヶ月くらいは実家に引きこもっていました。でも、さすがに働かなきゃまずいなって、実家から徒歩3分のパチンコ店でアルバイトを始めたんです。そこにいたのが、現在の妻でした。ひと際明るくて、元気で、すごく前向きな子でした。妻も飲食業経験者で「自分の店を持ちたい」という夢を持っていたので、「一緒ならもう一度挑戦できるかもしれない」と思えました。


そして見つけたのが、スーパーホテルの「Super Dream Project」で、パートナーと2人でホテル1棟を管理しながら、経営ノウハウを習得しでき、お店の開業資金も貯められるという魅力的なプロジェクトでした。


2015年3月に東京のホテルに着任し、次の年にはホテルの立ち上げを経験。最後は255室ある横浜のホテルの管理人をして、2020年3月に卒業しました。2人とも未経験だったので最初は大変でした。任期中は、スタッフ採用に苦労した時期もあり、妻とたった2人でホテル1棟を回していた時もありました。5年間のなかで、ホテルの支配人として、フロントスタッフ、マネージメント、清掃・朝食・予約・価格の管理などを経験しました。
 

ただ、特に最後の方は責任者として管理の仕事が多く、唯一接客するタイミングが、特大クレームの時でした(笑)いわゆる「責任者出せ!」ってやつですね。その接客しかしていないと、接客するのが怖くなっていきました。
 

任期満了が迫ってきて、「資格のような手に職がない自分たちが、夫妻でできる仕事はないかな」と考えていた時、1粒5万円するブランド苺を動画サイトで目にして。農業なら2人で稼げるんじゃないかって、ふわっとしたイメージで、志すようになりました。それで、飯田市にUターンすることにしたんです。


直感に響いた物件との出会いで、「農」×「宿泊」を決意

ーUターン後は何から始められたのですか?

中島:まず、飯田市に帰ってきてから祖母の家で妻と3人で暮らし始めたのですが、農業ができる立地ではなくて。僕の実家も、妻の実家も同じく農業ができる環境になかったので、まずは家探しを始めることにしたんです。
 

合わせて、身近に農家さんがいなかったので、飯田市役所に相談に行きました。色々な方をご紹介いただいた中に、上野さんという方がおられました。すごく現実的な方で「自ら決めた範囲の中で最大限に収益化していく」というような合理的な農業をされていて、すごく面白いなと思いました。


また、曽根原久司先生(前回登場した曽根原宗夫さんの兄)を講師に招いた飯田市主催の公民館講座「農村起業家育成スクール」にも参加しましたね。自分の経歴と地域資源を掛け合わせて農村で起業するという内容でヨーロッパ主体のグリーンツーリズムの例を聞くうちに、農業と宿泊業の掛け合わせに可能性を感じ始めました。農村の風景の中にある家に滞在するのは素敵だなと。


ー様々な事例を聞くうちに、徐々にやりたい方向性が固まっていったのですね。

そうですね。さらに他の事例が知りたくなって、半月かけて妻と2人で東日本をぐるっと車で回りました。1棟貸しの古民家宿や田園の中にポツンとあるピザ屋さんとか。北海道は完成された観光地なんだと感じたり、各地方の事例や特性を知ることができました。それでもまだ、農業で起業しようと思っていて、旅から戻ったあとも農業ができる物件を探していました。飯田市だけでなく南信州全体を視野に入れていました。
 

でも、何十件回っても見つからなくて。僕らは、Uターンといえどほぼ移住者のような感じでしたので、情報も少なくて。そんな中、ふいにインターネットで見つけた物件に内見で来た時に、農地も眺望もある雰囲気が良い古民家だったので、すぐに妻が「ここに住みたい!」って。
 

母屋の隣には、物置になっていた離れがありました。僕は、農業と宿泊業っていう考えが浮かんでいたので、「母屋は、僕らが住むにはもったいないから、離れを自分たちで改装して住もう。母屋を宿にしたら不動産で収益化できるよ」と、妻を説得しました。それで、農業と宿泊業の形態を目指すことになったんです。
 

ー最初から、古民家を探すと決めていたのですか?
実は、決めていなかったんです。本当に妻の直感でした。マッチする空き家の物件が見つからない話はよく聞く中で、移住して1年も経たない2021年初めに購入できたのは、奇跡的だったなと感じます。


「やりたい」という思いに「類友」も集まってくる

ー初めての土地で事業を始めるのは難しいと思いますが、どのように関係性を築かれたのでしょう?

中島:ここ「燕と土と」は、飯田市龍江という場所にあるのですが、偶然にも「農村起業家育成スクール」が開催されていた場所でもあったので、そこで自治会の会長や長野県の地域おこし協力隊の杉山さんとつながりました。物件が決まってからは、自治会の会長が僕を連れて近所を回ってくれたりもしました。
 

また、龍江に移住してきていた杉山さんは、2年ほど前から移住者交流会を開かれていたこともあり、移住者コミュニティを持たれていたので、そこに混ぜてもらって、どんどん繋がりが広がっていきました。
 

ータイミングが良かったのか、中島さんの行動的な性格が運を引き寄せているのか、どう思われますか?
中島:
何ていうか、「類友」だと思います。行動している人がいたから、吸い寄せられたのだと思います。宿が出来上がっていった話にも通ずるのですが、宿をつくると決めた時は何も決まっていませんでした。
 

「大工さんを探しているんです」といったら、杉山さんが自分の家を担当したDIYを推奨している大工さんを紹介してくれました。次は、大工さんから電気工事士さんを紹介いただき、電気工事士さんからロゴのデザイナーさんを紹介いただきました。そして次は、水道と下水道工事がいるなと、僕の髪を小学4年生の時から切ってくれている美容師さんに相談したら、美容師さんのお客さんに僕の同級生がいて水道工事の手配をしているからと、紹介してもらいました。次に、美容師さんからは税理士さんも紹介いただいたのですが、その方もたまたま僕の同級生でした。
 

写真は、飯田市のWEBメディアで取材に来られた写真家の方の写真が素敵だったので、お願いし、WEBサイトは、ある日飯田市に移住したいという若者からDMがきてお話を聞いていたらWEBデザインができるということだったのでお願いしました。

そんな風にどんどんつながっていきましたね。
 

ーすごい!(笑)。それらは全て偶然、なんでしょうか?
中島:偶然じゃなくて必然と感じることもありました。自分がこういうことをやりたいって強く思って行動していると近い思いを持っている人が近寄ってきてくれる。地域に入り込むって、そっちが先なのかなって思います。人間関係でも、実際に何か一生懸命やっていると、どんどん声をかけてくれる人が現れ、それが周りに広がっていくという感じでしたね。


夫妻で掛け合わせるマルチワーク

ー農業の方は、「龍ノ穂ーリュウノスイー」の屋号で2023年4月にスタートされたんですね。

中島:2021年から妻が、新規就農のために2年間、農家修業に行ってくれていました。僕らは、これが作りたいという明確なイメージがなかったので、修業先で栽培されていたお米とトウモロコシと市田柿を主に生産することにしました。僕は、農作業はするのですが、それ以外は妻がやってくれています。逆に、宿の方は、妻が清掃を手伝ってくれています。
 

ー役割分担は自然とできていったのですか?
中島:ホテルの仕事の時からわかっていたのですが、僕らって同じ仕事を2人でやろうとすると、ばちばちに意見が分かれるんです(笑)。なので、きっちり分けてしまった方がうまくいく。農業は1年周期で、宿泊業は1日周期なので、パズルのようにスケジュールを組み立てています。


宿の清掃は、一棟まるごとで5時間かけます。床も窓も手拭きで、こだわってやっているし、草刈りもやっているので、1人ではできないから2人でやる。農業の方も1人では大変なので、今は2人でできる限界を探しています。
 

最近では子供が生まれたので、僕の母に、清掃を手伝ってもらったり、子供を見てもらったりしています。


ー家族で生業を作り上げているのは、ひとつの理想の形に思えます。
中島:将来的には規模を拡大して、従業員を雇いたいとも思うのですが、いくらお金をかけて募集しても、いい人が来るかはわからない。そうなった時に、やっぱり最初のコミュニティで絶対ぶれないのって家族だなって。家族単位で経営できる範囲で最大限稼げる仕事を考えていくと、今の範囲って結構ベストなのかなって思ってます。


ー実際、2つの事業をオープンされていかがですか?
中島:宿の1年目は、週1予約で稼働率30%くらいでしたが、今はコンスタントに週3くらい入っています。コロナが明けて、インバウンドが増え始め、世界中の色々な国から来てくれています。


今、民泊プラットフォームのAirbnbに掲載されている宿泊施設のなかで、評価が高い上位5%の宿に選ばれるようにもなりました。


ー飲食業も宿泊業も諦められた時期があったなか、やっぱり接客業が向いておられるのでしょうか?

中島:自分が提供したものでお客様がどう反応しているか見るのが好きなのだと思います。農業だけだと、お客様の反応が見れない可能性が高いので、この2つの事業を掛け合わせている状態は、サービスの面でお客さんにとって良いだけでなく、僕らにとっても良い効果になっているのだと思います。


ー今後はどんな風に考えられていますか?

中島:今は農業に力を入れていきたいです。宿は、ある程度安定してきて、徐々に収益も伸びてきています。龍ノ穂のトウモロコシは、糖度18度でメロンより甘いんですが、まだまだ知られていません。もっとブランド化して訴求したり、来られたお客様に魅力を伝えていき、農業も収益を伸ばせるように努力したいです。


ー新規就農は大変だと聞きますが、中島さんの話からは希望を感じますね。
中島:そう思えるのは、やはり宿をやっているからだと思います。宿を開業せずに、農業のみで生計を立てて行こうと思ったら2年もったかわからないです。バランス感覚だと思いますが、どこまで手を出すのか、これ以上、手を出しちゃ駄目だなという線引きをある程度、感覚的に決めてるのかもしれません。本当は、宿泊施設をあと2、3棟増やしたいのですが、いま手を出したらダメだろうなと。


バランスをなるべく崩さないようにやる感覚は、スーパーホテルで培ったものもありますし、農業の師匠の上野さんが合理的に経営されていたことに影響を受けていますね。自分ができる範囲で余裕を持ってできるのが一番いいので。1年目は宿、2年目は農業、3年目は子供と、1年に一個ずつ増えていっている今がちょうどいいのかもしれないです。

執筆:田中聡子
編集:北埜航太


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